どのような人物?

どのような人物か?

マリア・シマノフスカ、“狂気と隣り合わせの才能”(ゲーテ)(1) 生前は神のように崇められんばかりの人気を得ながら、没後あっという間に忘れられるという奇妙に矛盾した現象・・マリア・シマノフスカは その好例である。当時のヨーロッパで徐々に増えていたとはいえ女性の作曲家、ピアニスト、音楽教師は、まだ少人数に過ぎず、その中で音楽 サロンにだけに収まらず聴衆のいる舞台で脚光を浴びた彼女は注目すべき人物であった。それでは、ゲーテやロマン・ロランの言うところのその<音の世界の魅惑的な絶対者>とは何者だったのか?(2)


早熟な才能

マリアンナ・ヴォウォフスカ(マリア・シマノフスカの旧姓)はカトリックに改宗したワルシャワのユダヤ人家庭に、フランス革命勃発の年に生まれた。スピネットでの即興演奏で周囲を驚かせる神童であった。8歳でピアノを習いはじめる:その時の二人の教師、リソフスキとグレムが結果的に彼女にピアノ演奏技術と音楽の基礎知識を教えた唯一の教師となった。目を見張るテクニックと雄弁な表現力は、本人の膨大な努力とキャリアを築く道で知り合った先達のアドヴァイスによるところが大きい。楽器としてのピアノの進化も常に注視し、イギリスのブロードウッド社の製品がマリアンナのお気に入りとなった。

三つの大国に分割され、助けの望みをフランスに見ていた当時のポーランドの首都で、マリアンナの父は愛国者たちがひそかに集う場所となる景気のよいビール工場を経営していた。妻と共に定期的に当時の文化人エリートや芸術家を招待していたが、その中に音楽家のパール、モーツァルト、ローデ、リピンスキ、クレンゲル、レッセル、クルピンスキ、アンジェリカ・カタラーニ、後のショパンの教師となるエルスナーがいた。

すでにワルシャワの音楽サロンでは有名となった“マリーニャ”は、1810年にパリへと赴いた。その演奏はパリでも著名な音楽家の目にとまり、大作曲家ケルビーニは、敬意と驚きをこめてハ長調のファンタジーを献呈している。帰国後、この若い女流ピアニストは地主階級のヨーゼフ・シマノフスキに嫁ぎ、短い間に三人の子供の母となる。次女のツェリーナは1834年にパリで、偉大なるポーランド詩人で後にコレージュ・ド・フランスの教授となるミツキエヴィッチと結婚することになる。

華々しい活躍

1815年から1820年にかけて、シマノフスカは初めての演奏旅行を行い、まずラジヴィウ公の住むポーランド、その後ドレスデン、ウィーン、ロンドン、サンクトペテルスブルグ、ベルリンをまわる。当初はごく私的な演奏活動だったが、彼女の評判が高まるにつれて後の名声につながる重要な人脈が生まれていく。彼女は優秀なピアニストであっただけでなく、作曲家としても認められていた:彼女の歌曲5曲のうち3曲はニエムツェヴィッチに依頼されたもので、1816年に出版された彼の作品“歴史の中の歌たち”から歌詞が引用されている。ポーランドという国の思い出を蘇らせる目的で書かれたこの作品群は、19世紀のうちに数回、版をかさねている。1820年にブライトコップ・ハーテル社はシマノフスカの作品を初めて出版した:シューマンに称賛された(3)「20のピアノのためのエチュードとプレリュード」、シェークスピア、プーシキン(父)、ドゥ・ベルニス枢機卿などの詩による「ピアノ伴奏による6つの歌曲」。この時期は、互いの興味がまったく違うマリアと夫との離婚もあった。

マリアは二人の娘を自身で育て、音楽で生計を立てていく決心をする。

コンサートと演奏旅行

その後の1822年から1827年は、彼女にとって休む間もない演奏旅行とヨーロッパでの画期的な成功を収めたコンサートに明け暮れる日々となった。まずロシアから:ヴィリニュス、サンクトペテルスブルグ(フンメルとフィールドと知り合う)、モスクワ、リガ、キエフ(“ポーランドのパガニーニ”と呼ばれたリピンスキと共演)、リヴィウ・・帰国する頃には“史上初の、もっとも権威のあるフォルテピアノの女王”と呼ばれるようになっていた。続けてカールスバード、マリエンバード、ここでゲーテは1823年の夏に初めて彼女の演奏を聴き、その詩「和解」の中に表したように熱狂的に褒め称えた(4)。ドイツを縦横に演奏旅行しながら、マリアはすべての大都市でコンサートを催した。1824年の4月にはパリのコンセルヴァトワールで、ヴァイオリンの名手バイヨと演奏する。出版社アンリは彼女の作品Le Murmure(ささやき)を出版し、それは間もなく驚異的な人気を博した。ロンドンから(ホールや サロンでのコンサートを行った)ロッシーニへの推薦状を携えて、ジュネーブ経由でイタリアへと赴いた。1825年の3月にはルーブル宮で演奏し、さらにアムステルダムやロンドンで称賛の拍手を浴びた。ワルシャワに凱旋帰国したのはようやく1827年になってからで、1月15日と2月7日に開かれた国立歌劇場での華やかな帰国コンサートには、聴衆の中に興味深く聴き入る17歳の若いショパンの姿があった・・。

広大な事業

兄弟姉妹、後援者、出資者、友人たちに支えられた彼女の演奏旅行はひとつの広大な事業だった。残された手紙の類、楽譜が添えられた献呈の言葉や詩やデッサンなどが収められた“サイン帳”は、その感動的な証拠である。これらのサイン帳はよくある“有名人のサインコレクション”とは程遠いもので、マリア・シマノフスカが獲得し得た同時代の芸術家たちとの深いつながりと、彼女自身とその音楽への周囲の大きな尊敬がそこに読み取れる。同時に、それはある種の世辞の絡んだ狡猾さの証拠ともなった:最初は美辞麗句のコレクションに過ぎなかったものが、すぐに“欲望のまと”に変貌し、多くの著名人たちがそこに自分の痕跡を残そうと望んだ・・。残されている署名は:サリエリ、ベートーヴェン、カルクブレンナー、スポンティーニ、パガニーニ、ゲーテ、ムーア、クレメンティ、ボイエルデュ、オーバー、マイアベーア、ライヒ、ジュディットパスタ、ウェーバー、プーシキン・・。

1827年の11月、シマノフスカは生地ワルシャワを去り、サンクトペテルスブルグに永住するため居を移す。新天地では娘たちの教育、作曲活動(ミツキエヴィッチの詩によるバラード群、変ロ短調のノクターン)、コンサート、ピアノ教師としての仕事に時間を使った。そのサロンにはロシアの首都に住む国際人やエリートたちが訪れた:ヴィアジェムスキ、ガリーツィン、フィールド、グリンカ、ミツキエヴィッチ、プーシキン、クリウォフ、画家のオレシュキエヴィッチ、オルウォフスキとヴァンコヴィッチ。
名声の絶頂期にあった1831年の夏、サンクトペテルスブルグを震撼させたコレラの大流行がマリア・シマノフスカに突然の死をもたらした。

文:エリザベス・ザポルスカ・シャペル
訳:福井麻子
PIANO N°25 (2011/2012)

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